最近、日本酒を飲んだのはいつですか?
忘年会シーズンや、新年が近づいてきました。長年、身近な存在として日本人の生活の中にある「日本酒」は私たちの生活の中をいつも華やかにしてくれます。
新潟県は日本有数の米どころとして知られ、お米を用いた「日本酒」を醸造している酒蔵は日本で一番多いといわれています。
今回は、その新潟県で新しく酒蔵を経営されるLAGOON BREWERYの田中洋介さんにお話を聞かせていただきました。
酒蔵経営者になるまでのキャリアや、日本酒に対する思いなどたくさん伺いました!
田中さんの興味深いエピソードから見えてきた、仕事との向き合い方についてお伝えします。
新しいことに常に挑戦してたどり着いた「日本酒」
ーまず田中さんのこれまでのキャリアについてお伺いさせていただきます。大学卒業後オーストラリアに行かれたそうですが、留学で行かれていたんですか?
田中洋介さん:留学というと聞こえはいいですが、遊びに行っていたという方が正しいですかね(笑)。1年間オーストラリアでフリーターをしていました。自然が大好きで、学生のころ自然体験活動のガイドをやっていました。具体的にいうとイルカのお兄さんやシーカヤックのガイドをしていました。
というのも、学生時代にイルカやクジラの魅力にのめり込んでしまって、沖縄にあるイルカを飼育している施設で1ヶ月間のインターンをさせてもらったのです。
インターンで認めてもらった後は、大学生の春休みや夏休みになる度にバイトとして行き、ゲストにイルカの生態についてお話したりしていました。あとは定置網漁の体験ガイドもしていたりして、そういう仕事をそのままやろうかなと思っていたんですが、持続可能性という点でハードルがあることに気づいて、1年間考える時間をとるために自然の豊かなオーストラリアに行きました。オーストラリアにいる間は、バイトをしてお金を貯めては旅をしての繰り返しでした。
ー1年間オーストラリアでキャリアについて考えた後、日本に帰国してどのような選択を取られたんでしょうか?
田中洋介さん:オーストラリアで旅ルポなどを書くようになったことで「伝える」ということに興味をもって、英語も多少話せるようになっていたので、英会話学校の「AEON」の広告宣伝部にお世話になりました。
そこで広告って面白いなということに気づいて、コピーライターの養成学校に通い、リクルートグループに転職をして、人材採用領域の媒体の仕事をしました。そんなこんなしていたら、リーマンショックがきて一番人材採用に影響が来たんですよね。どこの会社も人を採用しなくなりましたね。
ーリーマンショックはとても日本経済に大きな影響を与えましたよね。田中さん自身のキャリアにも何か影響を与えたのでしょうか?
田中洋介さん:リーマンショックが起きた時、ちょうど30歳を迎えて、今が転機だと思いました。
そんな時に、今代司酒造の存在を知りました。今代司酒造には親会社があるんですが、その親会社が今代司酒造の将来的な経営者を探していることを当時の同僚が教えてくれたんです。興味があったので、今代司酒造でいずれはやってみたいという流れで、まずはその親会社に就職という形になったんです。
ですが、すぐに新潟に行くわけではなくて、親会社のトップから「日本酒はいずれ海外にも展開していかないといけないものだから、学びのためにも海外で働いてみないか」と言われてシンガポールのサッカーチームに2年間行きました。
アルビレックス新潟(日本のサッカーチーム)の関連チームでアルビレックス新潟シンガポールというチームがありまして、そこは親会社の関連会社が運営しているんです。そこで働いたのち2012年に今代司酒造に正式に入って、2年後には社長に就任し、合計約10年間経営を担いました。
そしてこの4月、輸出用に限るという条件付きですが日本酒の製造免許が新規で取れる制度が始まったので、いつまでも雇われ社長で居続けるのは会社にとっても良いことではないと感じました。
10年の節目ということもあり、この機会に挑戦しようと今代司酒造を卒業し、独立しました。
新潟は自然が豊かで、評価のされやすい環境
ー実際に新潟に住んでみて、いかがですか?
田中洋介さん:元々東京に住んでいたんですが、不便はないですね。生活のレベルはそんなに下がらないですし。むしろ東京より人が少なくて、山と海が近くてより良いなと感じます。本当新潟って丁度いいところだなと。エンターテインメントにしても、自然にしても、暮らしにしても何も不足することは無いです。ただ、関東人からすると冬は少し辛いなと思います(笑)。
人との交流でいうと東京と比べると人口は少ないですが、その分、顔の見える付き合いができます。
なにか頑張っていればテレビや新聞などに取り上げられることも少なくなく、そういう意味ではすごくやりがいを感じられやすく、評価のされやすい環境だなと思います。
価格よりも価値を伝えていくことが大切
ーそもそもどうして田中さんはお酒の世界日本酒業界に行ったんでしょうか?
田中洋介さん:元々すごい酒好きだったんです(笑)サラリーマンのころは社内で酒のイベントをやっていたりもして。お酒を好きになった理由は、大学時代の親友の家が小売酒屋で、授業終わりに行くといいお酒がタダで飲めるという環境だったからです(笑)。
そのように普通の人よりはお酒に詳しいし好きだったので、30歳で転職を考えていたタイミングに同僚が紹介をしてくれました。
ー酒蔵経営をして大変だったことはなんですか?
田中洋介さん:当初は赤字だらけで、持ち直すための経営が大変でしたね。価格設定がおかしかったので、いくら売ってもマイナスになってしまうんです。2006年くらいから純米酒しかつくらない酒蔵になっていて、純米酒はコストが高いので価格帯が高くなりがちなんですが、安く売っていたんです。
なぜかというと、新潟は普通酒や本醸造といった少し安い価格帯のお酒もクオリティが高く人気があるので、そうした市場で戦うために純米酒であっても無理に価格を下げて売っていたんだと思います。だから売っても売っても赤字という悲しい状況でした。
そこで、商品を全面的にリニューアルして、価格も真っ当なものにしました。ちゃんと価値を伝えれば高くても売れると信じてそこにメスを入れたんです。
そこからは、売れたらちゃんと利益が出るという当たり前の流れができました。それができていなければ、社員だって「どうせ売っても赤字でしょ」という気持ちになり、やる気が起きないですよね。
売れたら儲かって、給料も上がる。そういうことを実感してもらうということに数年間は一生懸命努めました。
ー改善をしてから売上が良くなったって実感するまでに、どれくらいの期間がかかりましたか?
田中洋介さん:2年くらいで安定期に入ってきた感じはありました。利益を出してちゃんと給料も上げていけるって感じるまでは3年ぐらいかかりました。社員も元々8人くらいだったのが、2倍位にもなりました。パート社員さんも含めたら4倍位になっていました。
ーその経験の中で過去のどんなことが生かされましたか?
田中洋介さん:リクルートグループにいたときにいろんなところに取材に行かせてもらっていました。その時に話す相手は経営層なので、経営としてとても参考になる話が多かったです。また同僚も前向きで刺激的な人が多くて、そんな環境にいられたことは良かったなと思います。
日本酒業界の現場は交流が盛んでオープンな世界
ー飲むことが好きだった日本酒の世界の中に入ってみて、感じるギャップはどんなことがありますか?
田中洋介さん:日本酒に対する固定概念がなかったので、ギャップはそんなになかったです。強いて言うならもうちょっと閉鎖的だと思っていましたが、実際はもっとオープンでしたね。技術者同士の交流も盛んだし、経営者同士の交流も盛んでした。
技術的なことも隠すことはなく、聞けば教えてもらえましたね。新潟県って清酒学校という酒蔵に勤めている人しか入れない学校があって、そこに入ると他のメーカーの若手と一緒に勉強をして3年間過ごすんです。そうすると横のつながりはしっかりできていきます。
経営者同士は、「酒の陣」という年一回のイベントを行うにあたって毎月のように会って話していたら、心が通うんです。
新規参入のないところに市場の拡大はない。「日本酒」に新規参入しやすい環境の整備が必要
ー新潟の日本酒に関して、若い年齢層で活動している人たちはいるんですか?
田中洋介さん:そうですね、新潟の「酒の陣」なんかは比較的若めの50歳代以下の経営者たちが実行委員会を組織して実行しています。県別の日本酒ブランド調査などでいまも新潟がトップにいるのは、そうした若い経営層が継続的に情報発信をしている賜物だと思います。さらに新潟では「日本酒学」という新たな学問を酒造組合・新潟県・新潟大学の産官学で組み、日本酒を学問横断型で学べる環境をつくりました。その卒業生は日本酒のアンバサダーとして全国・世界へ羽ばたいていってもらうという取り組みです。
僕自身も、アルコールを摂取し始める学生さんたちに日本酒の良さを知ってもらう機会をつくっていきたいという想いがあり、それはこれからの活動の中で反映させていきたいと考えてます。
ー日本酒の業界の課題はどんなことがありますか?
田中洋介さん:日本酒はまだまだ世界のワインと比べると体系化できていないので、そこは課題ですね。
醸造学などとして日本酒のつくり方という部分は研究が進んでいますけど、医学の中での日本酒や経済学の中での日本酒など、そういう身近な暮らしのなかでの日本酒という捉え方が弱く、そこは整理していかないといけないなって思います。
ー田中さん自身のこの酒蔵でのゴールや想いはどんなものがありますか?
田中洋介さん:新規参入の無いところに市場の拡大は無いと思います。あとは日本は自家醸造が許されていないんですが、海外では自家醸造が結構許されていて、アルコールに対する親しみが全然違うんですよ。技術レベルの話しをすると、国民全員が醸造家になれる国となれない国とでは、技術レベルの上がるスピードが全く違うわけです。何年かしたら日本酒づくりはアメリカのほうがレベルが高い時代が来てもおかしくないと思います。
だからこそせめて、情熱があり健全な考えを持つ人であれば誰でも日本酒づくりを行えるくらいの環境が日本には必要なんです。
そんな中、ようやく今年の4月から、輸出用限定ですが解禁されました。それはやっぱり希望の光でしかないんです。そういう道ができたことは本当に大きな進歩です。これから日本酒製造の新規参入者が増えれば、業界の停滞ムードが払拭されて、日本酒市場の拡大に確実につながると思います。僕も他のメーカーさんの市場を食い荒らそうなんて少しも思ってないですし、逆にみなさんがハッピーになるような取り組みをしていって、同業者の方々にも認めてもらわないといけないと思っています。そうすることではじめて今後の新規参入者が歓迎されて、ひいては日本酒業界が活性化し、再び発展フェーズに向かっていくのだと思います。
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イルカのお兄さんからオーストラリアへ渡り、会社でサラリーマンとして働いてその後日本酒の世界にたどり着いた田中洋介さんにお話を伺いました。日本酒業界も今後楽しみになるようなそんな明るいお話も聞かせていただきました。
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- 田中洋介さん
たなか ようすけ|経営者
1979年生まれ。千葉県出身。
Jターンで日本酒の世界に飛び込む。 老舗酒蔵の経営を10年間任されたのち、独立・ 起業しLAGOON BREWERY合同会社を設立。 輸出用日本酒製造免許とその他の醸造酒製造免許を受け、 独自の酒づくりを開始。
LAGOON BREWERY合同会社HP:https://www.lagoon-brewery.com/
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